「ボランティアの通知簿」

【No 0005】 [2004年01月16日(金) 00時45分49秒]

雑巾を絞っている人に「なぜ雑巾を絞ってるの?」と聞いて「床を拭くため」と答えられるとチョッとガッカリします。
これは例え話ですが、たいがいの人はそう答えると思います。
でも私的には、「床を綺麗にするため」とか、「清潔に心地よく過ごすため」という答を期待したいのです。
毎回、床を拭くという行為だけが頭にあると、機械的に手を動かしているだけになってしまいがちです。
そうなると新しい拭き方を考えようとか、よりよい雑巾を試そうという気持ちにもなりぬくいわけです。
「心地よく過ごす」と「床を拭く」とでは、目的への到達速度が確実に違ってくるのです。
自分はなぜこの雑巾を握っているのか、なぜこの雑巾を握ったのか、それが頭にあるか無いか。
行動の結末がどこに結びつかせ、どこに到達させたいのか、そんな最終目的をいつも忘れないで居れば、
慣習や怠惰なマンネリに溺れることなく一番良い状態で初志を貫いていけるのではないかと思います。

い、いきなり雑巾と掃除の話?・・・いいえ、ボランティアの話です。

さて、ずいぶん以前からボランティアに携わっていた方もおられるかと思いますが、
日本にその言葉がしっかり根付いたのは「阪神淡路大震災」からだとよく言われます。
和歌山という土地柄、阪神淡路大震災はとても身近な災害でした。
一昨年、全国から集まった友達と神戸の町を歩いているとき、「ココにあったビルが倒れて凄かったよね…」
「うん、俺ボランティアで入ってたとき、毎晩ここに出てた屋台で呑んどったわ」
「ほんま、悲惨やけどたくましかった。ようここまで戻ったよね」などと話していました。
ボランティアに携わった人間、近畿圏内に住まいがある人間は、今でも感慨深げな表情で当時を振り返えります。
その中で「そうなんだ…」と関東方面の友人がつぶやいていたのです。
その言葉に私は、いくつかの事に気づかされました。
いっけん無関心で冷たい人間っぽく聞こえる「そうなんだ」の言葉ですが、まったくそんなことはないのです。
距離、これがいかに凄いことか、あらためて感じさせて貰いました。
私もたぶん北海道で起こった震災の後の土地に行ったら「そうなんだ」としか言えないと思うのです。
そしてもし、阪神淡路大震災の時に私が被害にあっていたら、関東の友達はすっ飛んで来てくれたはずなのです。
地理的距離とココロの距離、ボランティアをおこなう上でこれはとても重要な事なのです。
よくボランティアで「地域に根ざした…云々」というフレーズを目にします。
これって、定例会に通うのに近くて良いとかいう安近短な問題ではなく、
上に書いたよな生活共感距離の問題でもあると私はあらためて実感しました。

私には差し出された手を払いのける気持ちなど微塵もありません。
私は身近で困っている人がいると、なかなか放っておけません。
たぶんみなさんも同じではないでしょうか?
ただし、手と、目と、声と、心が届く距離までだと思います。
知らない人は毎日死んでいます。
飢えたり、困ったりしています。
そのニュースを、朝食を取りながらみています。
遠いところで知らない人が何人死のうが、食欲は変わらないでしょう。
でも数日前に偶然言葉を交わした人が事件に遭っていたら、そのコーヒーの味はいっぺんに変わるはずです。
それがどんなに遠くの人であっても。
現実に知っているという体感と、物理的距離が人の心と身体を動かすのです。
そんなパワーを発揮する為にも、手と目と声と心が届く所でのボランティアが理想です。
「同じ目の高さで」というスローガンがよく使われますが、目の高さだけじゃダメなのかもしれません。
とにかくどれだけ関わり合いを持てるか、時間を使えるか。
現実に今ココにある手と目と声と心に求められたなら、
綺麗事だけの理想論が一人歩きしてしまうことは少ないかもしれません。


なんだか長くなってしまいました。
・・・と言うことで「ボランティアの通知簿・2」に続く。


【No 0006】 [2004年01月17日(土) 15時46分37秒]

私がボランティアをしていた時、自分自身そこで何がしたいのか、見つけることが出来ませんでした。
良くあるパターンですが、いわゆるその活動がしたくて入ったわけではなく
「義理入会」と言われるものだったからです。
でも、ボランティアがしたくないわけではありませんでした。
そういう何かに関わりたいという気持ちはあったのです。
でも、自分が何をしたいのか見つからない。
今になって思えばそれは無理からぬ事でした。
自分がやりたい事は何なのか、最初に自分自身に聞いていなかったからです。
自分の廻りの既存のボランティアを見て、これが自分に合うかどうかで見ていたのですから。
はじめに自分のやりたいことを知り、それに近いボランティアを探す。
そうでなければ納得のいく活動なんて出来ません。
義理入会である私は、たぶん自分が関わっていたボランティアを、自分自身が「必要ない」と
思っていたのかもしれません。
自分が探して見つけたボランティアの大元の活動に賛同できれば、
違うと思う部分と納得できるまで戦かえばいい。
でも、そうじゃなかった場合は新たなボランティアを見つければいいのです。
たとえば結婚したいと思い、Aさんが好きだけど、Zさんの方を進められたから、Zさんと結婚するでしょうか?
結婚するのが目的だからといって…。
ボランティアって、自分が好きで見つけた伴侶のような存在だと思います。
自分の「望むこと」にウソをついてはいけないです。
それ以前に自分が望むことにウソをつく必要が無い、それがボランティアだと思います。

精魂傾けるボランティアを見つけたり出会えなかったときは、
既存のボランティアではなく自分が求めるものを作ればいいと思います。
大きな会とそれに賛同する人達が居るから活動が出来るのではなく、
たった一人でもボランティア活動は出来ます。
とにかく人間は、自分が心から必要だと思ったときに動くことが出来るのです。

職業は生きていく糧を得るのが大前提です。
でもボランティアは、自分が本当に必要だと感じられることを達成させるのが大前提だと思います。
自分が心から納得できる活動、ボランティアで得られる物は自分自身を納得させる事だと思います。
自分が心から何を必要だと感じているのか知りましょう。
そしてこれだと思う物に出会ったら、自分自身が選んだという自覚と責任の元にドシドシ行動を起こしましょう。
誰に背中を押されたわけでもなく、自分自身の欲求で今ココにいるのですから。
「こうなればいいのに」それを叶える手段が「ボランティア」だと私は思っています。


「ボランティアの通知簿・3」に、まだまだ続く…。


【No 0007】 [2004年01月17日(土) 16時11分19秒]

私はボランティアというものに関わり、年数だけ重ねてきました。
でも今思えばボランティアと関わる上で思い悩んだ分、いろんなものが見えてきたような気がします。
良かったと思います。
最近ようやくですが、こういう事をしたいという物が見えてきました。
一方的に誰かを支えるのではなく、共に支えたり共感したりできるボランティア。
その辛さから先に抜け出る方法を会得し始めた人間が、
同じ辛さを背負っている人間と関わり一緒に生きていく。
そういうボランティアの形です。

物理的に困っている人はボランティアを求めてくれます。
でも、形のない部分で困っている人は、ボランティアを求めてはくれません。
求めるというより、自分がなぜ苦しいのかわかっている人のほうが少なく、ともすればそんな辛さは隠したいのです。
形がないものに助けを求めようとする場合、その気持ちを説明しなければなりません。
自分の苦しい部分を人に伝えるのは、想像以上に辛く難しいことです。
ましてやそんな苦しい経験などこれっぽっちもしたことが無い人に
自分の弱さをさらけ出すなんてイヤに決まってます。
そして一番辛いのは、苦しさを背負っているのは自分だけという孤独感です。
「あなただけではない」という言葉を発するのは簡単です。
でも、その言葉を言った人間が私もそうだと言えない限り、「あなたに何がわかる」と言われてしまいます。
何も無理をして遠くの人に手をさしのべる必要はない、辛い気持ちは私の中にだってある。
私は私の中に居る辛い自分を助けよう。
私は私自身が持っている辛さを逆手にとってボランティアにしようと思いました。
そうして私が見つけたボランティアは、自分のこうなればいいという目的に一番近いものとなったのです。

しかし、BBS活動をする皆さんにはまた違う関わり方がありますよね。
「同じ目の高さで」というスローガンがあると言うことは、同じ目の高さでは無いと言うことです。
いくら努力しても、故意に目の高さを合わせている不自然さがあります。
この不自然さが大事なのです・・・・。
(ところで、同じ目の高さでという言葉ですが、高さが違う、同じ高さにしようという事自体に、
言ってる側のタカピ−さを感じるのは私だけでしょうか?
どちらが高くてどちらが低いという事は別にして、なんかやっぱり愛想笑いっぽいです。)
同じじゃないから、生まれも育ちも経歴も何一つとして同じではない人間どうしだからこそ、
ありのままの自分を見て貰う。
オロオロして戸惑って困っているときも、そのままの姿を見て貰うのが、一番大事な事。
確かにそれしかできないのです、人の事まではわかりません。
わかったつもりが最低のウソになります。

「ボランティアの通知簿・4」…に、続くんだけど、四月まで書かんでええとか?
そ、そーゆー事は無い・・・・ですよねぇ〜。(^_^;)


【No 0008】 [2004年01月20日(火) 00時01分01秒]

さて、これらかBBSはどんな活動をしていくのでしょう?
と言いながら、ボランティアって求められてそれに応えていく活動だから、
そんなことを考えてえていてもダメなのかもしれませんね。
多種多様、人の数だけ求める形が違うから、とりあえず安心して求めてもらえるいい大人なることだけ
かもしれません。

求める側はとても困っていたり、苛立っていたりしています。
でも、そう見えない、見せないことが多いけれどね。
だからボランティアには、真っ向向いて取り組まなければ失礼なのです。

お金を貰ってないから偉いとか、凄い事とか、尊い行為なんてのはあり得ません。
そんなレベルの活動しか出来ないのであれば、お金を貰ってボランティアをすればいい。
そのために使われるお金は素晴らしい価値があると思います。
結果がお金で買えるのであれば、結果への最短距離。
結果が出せず、受け手が納得しないのであれば、ボランティアなんて必要ない。
ボランティアって、する側のためにあるのではなく、受け手のためにあるのですから。
まるで無意味な存在にならないために常に結果を追い求める。
けっこう仕事以上にシビアな活動です。

いずれにしても心も体もバリ3じゃないとボランティアって続けられないですよね。
今年も健康第一で身体に無理をさせましょう。
今年のスローガンは「目的のためなら手段を選ばない」なんていかがですか?
あっ、これは私の気合いを表現した言葉なので、よい子の皆さんはまねをしないように。(^_^;)
会員同士の会話、HPの書き込みや活動の一挙手一投足、
そのすべてが結果への手段だといつも頭に置いて、活動を続けて下さい。


 ども、長々とすみません。
新年一月号は付録付き♪って事で納得して下さい。
さて、いつものことではありますが、私はココには正しいことを書いているのではありません。
誰だってボランティアというものに携わっている限り、自分なりの思いや考え方がおありだと思います。
私の思うところを読んだ事で、違いやズレや疑問を一つでも感じて頂ければ幸いです。
ほんの少し、今一度、考える切っ掛けになれば幸いです。