『人権…って?』

【No 0015】 [2004年10月13日(水) 22時27分25秒]

BBSのHPには『人権って?』という良いページがあります。
人権ですから人間同士のことです。
私達は生まれたときから人間で、ずっと同じ人間として生きてきたのに、
どうして「人権」などと言わなければならないのでしょう?
『新・人権って?』には盲導犬のこともふれられていました。
人権?犬権?いえ、全ての生き物のことです。
何かを根底から変えて行くには人間だけではなく、ここらあたりからも思い至る必要があるのかもしれません。
このHPを読んで色々考えるきっかけになればと思います。

 盲導犬のことで思い出したのですが、以前テレビで捨て犬の事が取り上げられていました。
ある女の子が見つけてきた子犬は目が見えなかったそうです。
誰が飼うという行き場もない子犬ですし、飼うことの困難さは分かり切っているので、
大人達は手放すことを進めました。
手放す=処分する、と言うことまで子供に説明したかどうかは分かりませんが、
大人は飼えないとしか言いませんでした。
そんな大人達に子犬を拾ってきた女の子は「犬は人を助けるのに、どうして人は犬を助けないの?」と
泣いて訴えたそうです。
この言葉には誰も反論できませんでした。
盲導犬が一般の人にも認知されてきた昨今、
「犬は人間に都合の良い道具ではない」と気づかされたまっすぐな言葉だったからです。
その後子犬は子供達が周囲の人にも理解の輪を広げて行き、みんなで飼うことになったそうです。
子供が不思議に思うこと、納得いかないと思うことって、得てしてとても大切な事だったりします。

 私自身そう頭は固い方ではないと思うのですが、やはり人間以外の生き物と関わることで
大切な事に気づかせて貰ったことがありました。
イルカの調教を体験したとき、機嫌の悪いイルカがプ−ルの縁から少し離れたところでプカプカしているのです。
ほんの少しで手が届かないので飼育のお姉さんは足でクイクイッと蹴ってイルカのご機嫌を伺います。
それを見て、うぁああ〜!イルカを足で蹴ってるよ〜!と思ったのですが、考えてみると、裸足なんだし、
手より足の方が長いんだからそれで正解なのですね。
どうも私は、足蹴にするとか、行儀が悪いとか、足だと虐待っぽいイメ−ジが先にわいてしまうんです。
でも、イルカには、手だの足だのと言う区別があるわけ無いんです。
手が届かないからってそこら辺の棒でつつかれるより、人間の皮膚で触られた方が良いに決まっています。
手も足もどちらも人間の体なのですから。
手だの足だのって、なんだか私つまらない事考えてたなぁ〜って、すごく納得できたのです。
それまででも、手が不自由で足や他の部分を使って食事をする方を見たら、
それがあの方達には普通なんだとは思っていましたが、やはり心のどこかでは
「普通だと思わなければならない」という部分が無いとは言えませんでした。
でも今は気遣いはしますが、身構える事は無くなり、いつもの自分で接することが出来るようになりました。
「普通ではない」ではなく、「それぞれの違い」。
私たち一人一人は、それぞれが抱えている都合や思いにまで踏み入る必要なんて無いのですから。

 片足を事故でなくし、義足をつけ健常者の中で、通常のルールを何一つ変えず
トライアスロンに挑戦している人がいます。
そのひとが話されていた言葉の中で、強烈に印象に残った言葉があります。
「体に障害があって悩むのは、背が低いと悩むことと同じ」という言葉です。
今までいろんな身体的ハンデをかかえている人の言葉を聞きました。
でも、私の未熟さだと思いますが、「ああっ、このつらさや歯がゆさはこういう事なのか」と、
心底納得させてくれた言葉は始めてでした。
これは私の心に対してで、他の人にの当てはまるかどうかは分かりません。
とにかく私にはこの言葉が一つ垣根を越えさせてくれました。
背が低いから、太っているから、容姿だけではなく心のコンプレックスまで、
自らの思うに任せない事を抱えている人はみんな障害を持っていると言うことでしょう。
この言葉に心が動いたのは、私もそういったコンプレツクスがあるからです。
事実コンプレックスを思い詰めて自殺をする人まで居ます。
他者と自分が違うと言うことは、どんな人にであれ同じように重いのです。
そう考えていくと、障害者という表現すら何か違うなって感じられました。

 「人権」、人の事ってどうしてこんなにややこしいのでしょうね。
せめて、自分という人間だけは自分で納得できるように努力していこうと思います。